流行と伝統

高校時代から言っているように,私は流行というものがとても嫌いである.流行の遷移と言うのは結局のところ最頻値のシフトに過ぎないし,しかも一部の都市部の一部の人員だけの現象が例のごとくマスコミによってあたかも日本全域で生じているかのように偽装・増幅されていることも多い.さらに言えば,たいていの流行がその業界の商売人と広告屋によって作られ,操作され,広められることで発生する.そんなものに踊らされる気はさらさら無いし,「はん,遅れてるね,カスムシ」と言われようが,こちらはもともと別の次元で生きているので何の意味も持たない.そんなもんを重要視しているのはあんたなのであって,俺には何の関係も無い.例えれば,首長族の人に「あんたは首が短くてダメね」と言われるのと同じである.「はあ,そうですか」である.どうせ年末に発表されたその年の上半期の流行語大賞ノミネート語ですらすぐには思い出せない程度なんだろ?何が残る?何になれる?

こうした様式がもっと長期的に定着すると伝統となる.私はこれに合わせる必要があるとは常々考えている.はっきり言って現在の俺はどうしようもない体たらくなので,そこはきちんとせんとでけん.これは本気で認める.伝統には歴史という根拠がある.しかしながら同類の「常識」というものは嫌いである.常識は目くらましに過ぎない.常識と言う言葉は何ら根拠を持たないにもかかわらず非常に説得的に使用されるからである.使う方にとって非常に便利な言葉だからである.常識として呈示された事柄の否定も証明できないため*1,言われた方は反論できない.「常識」は非常に客観的なものに見せかけた最も主観的な言葉である.日本全国の意見をいきなり総動員して仮想的多数決で有無を言わさず打ち負かすことのできる元気玉である.「常識だろ?このゲリ漏らしが」と言われると,「誰の?あんたの中のでしょ」と答えたくなる.「普通」という言葉も同様である.もうそんな粉飾みたいな言葉で言われるくらいなら,「つべこべ言わずに言うとおりせえや」と言われる方がまだマシである.

心理学に限って言えば,定番じゃ弱く,流行り物を追うのでは遅すぎる.世界中の誰よりも早く,何よりもでかいブツを提供しなければならない.分かってはいるが確かに簡単にそれができるということは無い.だが,だからと言ってこれはいつでもやめられるお遊びじゃない.ご丁寧にもやめちまえとご指摘して頂いたあの日から俺は全ての退路を断った.もはや流行も常識も関係なく,止まらず,やるだけだ.ダメなら死ぬしかないな.

といった感じのことをid:onobouzuさんとウイイレしながら適当に話している夢を見た.もしかして潜在的今日という日を意識してるのかなあ.夢には組み込みやすさが関係してるらしいしなあ*2.へへんっ!どうせ今日のこれもマーケットのブレーンたちによって作り上げられた虚飾さ.ちっくしょ,涙みたいなのが出てきた.おかCな,まだ今日は始まったばかりだというのに.


















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↑なめんな.これ読んでる時点でかっこ悪いわ.あくまで俺から見ればだけどね..

*1:悪魔の証明.否定の証明は不可能である.

*2:
Nielsen, & Stenstrom, (2005). What are the memory sources of dreaming? Nature, 437, 1286-1289.
http://www.nature.com/nature/journal/v437/n7063/abs/nature04288.html;jsessionid=E37471C1A4D85AC9FCBDC84EFFE1F4B9