ゆとり?


とある国立大学のとある講義の最後に課される小レポートを拝見する機会があったが,すごかった.
まず第一に,自問自答形式が多い.「待てよ,●●はどういうことなんだ?ああ分かった,●●って理屈か」など.あ,基本的にタメ口なのはもはやデフォルトです.とりあえずそこまでレベル落ちてます.
次に,講義中に紹介された事実あるいは学説に対して「普通●●なのかと思っていたら,●●なんよねコレ.」などの一般向けの注釈を加える.
第三に,特殊表現・用語を多用する.「●●●w」とか「●●●ktkr」など.

俺はこんなのに何かを教えられるかどうか非常に不安である.それまでの学生生活で完璧に先生というものをナメきって育ってきているので,講義の公式な提出物にこんなのが書けるのだと思う.これまでは友達感覚の先生相手に試験で点数さえ取ってれば何も文句言われなくて良かったのだろう.てか少なくとも提出物にVIP語はありえんだろ...こんなんVIPPERでも引くわ.
いや確かに我々(というか俺)も当時は常にどうやって代返を頼むかな,何を報酬にお願いするかなとかばかり考えてはいたが,提出物は少なくともまともに書いていたと思う(内容はともかく文体は).AA氏は最近の子らに希望を見出したようだが,私はむしろ逆で,かなりのギャップに驚いている.つまり,「二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めたとさ.一人は泥を見た.一人は星を見た.(フレデリック・ラングブリッジ『不滅の詩』) 」である.つまり俺はDIOなのである.まあそれはいいや.近年の実験レポートおよび卒論を見ても,なんというか,その,いろいろ感じるところがある.いや,俺のもかなりひどかったけど.特にミュラー・リヤー錯視の回は(伝説の「ほうら違って見えるでしょう?」).
うーん,でも良く考えると学会発表でアーミールックとか研究会の口頭発表でガラスの仮面VTRとかもありえんか.なんか俺ひどいな.人のこと言えんな.でもやっぱりVIP語はいくら俺でもありえん.なんであんなことが書けるのか理解に苦しむ.多分,近年ネット人格というものが言われているように,我々にネットと現実で行動様式(もっと言うと自我同一性)の二重性が生じているのだろう.そして,そのどちらを採用するかは場面場面で選択されるのだろうが,その選択決定段階での基準が偏移してきているのではなかろうかと思うお.それか,もはや二重の行動様式など持たずに,ネットでの常識とリアルでの常識とを共通のものとして作り上げているのかもしれないお.だって誰もそれが間違ってるよって指摘しないんだから認識・行動の変容も生じないお.それが個性を尊重したとされるゆとりってやつなのかお.